1978年、松本はその年開催される長野国体の話題で沸き返っていた。
その盛り上がりは、1998年に開催された長野オリンピックの時よりも遙かに大きかった。
それは、オリンピックが長野市を中心に開催され、新幹線も長野にしか来なかったのに比べ、国体の中心が松本に新たに建設された競技場であり、また、松本 周辺で国体道路が整備されていたためであったような気がする。
各高校にもアルバイト学生の募集が割り振られ、その情報を嗅ぎつけた落研のN.HとN.Mも、早速アルバイト募集に飛び付いていた。
大概のアルバイトは、やはりある程度の競技経験が必要なため、体育会系のクラブを中心に人が集められていたのだが、その中で、資格を問わない「テニスの表彰係・男子4名」というのに応募することにした。
先着順だったので、なんなくその仕事にありつくことが出来た。
しかし、表彰係・男子4名とは何をするのだ?
頭に浮かぶのは、綺麗な着物を着たお姉さんがお盆に乗せたメダルを大会役員に渡すというシーンであるが、果たして男の表彰係とは何をするのだろう?表彰台の組み立てでもするのだろうか?
そう、最初に描いた二人のイメージは当たっていたのだ。運営組織が求めていたのは女性4名。何らかの手違いにより男性4名が集められてしまったのである。
即刻追加で女性4名の募集が行われた。
よって我々は首・・・にはならずに、そのまま表彰係の任に就くことになった。さすがはお役所仕事。こうして、県民の貴重な税金が無駄に浪費されることになるのだ。
当日、表彰係の男達4名は、テニスコートとはちょっと離れた田んぼの中にいた。息を潜め、静かに、ひたすら会場からの合図を待った。
ようやくその時が来た。会場にいる役員の合図をリレー方式で中継し、遠く離れた花火職人に伝えたのだ。
表彰式開始の合図となる、打上花火が上がった。我々は、立派にその務めを果たした。
これで、アルバイト料2,500円×2(リハーサルと本番)と、大会ユニフォームである青いウインドブレーカーをもらったのである。右手の一振り で・・・。さすがに、雇用の創出に関してはプロなのである。
青いウインドブレーカーは、とても街を着て歩けるような代物ではなかったが、これを着ていると、国体の各競技施設にフリーパスで入れるという特典があった。
カメラ小僧に変身した我々は、その特典を大いに利用し、著名な選手達を撮りまくっていた。
ところで、長野オリンピックの際に1億円を超える使途不明金が問題になっていたが、わずか2万円足らずといえ、ここにも意図不明金があったことを心ならずも暴露してしまった。
今、巷では、白骨温泉の8年間の不正行為(どうせなら「草津の湯」ではなく「白骨の湯」を入れればよかったのに・・・)が話題となっているが、25年前 の歪んだ事実を、25年間封印されていた扉を開き、白日の下に晒してしまったのである。
その結果として、気が弱い私は、当局の魔手から逃れるために信州を遠く離れ、横浜の地でひっそりと暮らしている。これをナイーブ告発と呼ぶ。
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